上司は我が儘 ロイドは動かしていた指先を止めて、時計を見た。無機質に夜9時を伝える文字盤を見て、目を伏せた。また指を動かした。キーボードを数回叩いて気付く。さっきと同じものが記述され、モニターの中がエラーを起こしていることに。慌ててデリートして立て直そうとする。またキーボードを打つその直前で、1つ溜息をつく。椅子の背もたれに身体を預けて天井を見た。灰色の冷たそうな天井が続いていた。 大きくノビをして、椅子から立ち上がり、給湯室へ向かった。ポットに水を注いで、湯が沸くのを待つ。それまで、マグカップとコーヒーを取り出しておく。もう一度時計を見た。さっきより4分しか経っていないことに絶望する。そうこうしている内に、ヒーターが自動で止まる。見よう見まねで注いでみた。デスクに戻りながら、一口だけ飲み込んだ。 「まずい・・・」 そのまま立ち止まってマグカップの中に映る自分と見つめ合う。何を言っても聞こえない返事を期待しても無駄だった。 手にしていたマグカップをそこらへんにあったデスクに置き捨てて、デスクの引き出しを開ける。 滅多に触れない携帯電話を手にする。そして、電話帳をスクロールしていく。 セシル・クルーミー。この名が出たところで、通話ボタンを押す。 彼女はいつもならばいた。しかし、今日は夕方から居なかった。ご飯を食べに行くだとかで出て行ってしまった。部下の休暇を確保してあげるのも上司の仕事だから、送り出した。その相手が誰だかは知らないが。送り出してからあまり気にせずにいたけれど、時間が経てば経つほど、知りたくなっていった。彼女が誰とどこに行っているのか。いつ帰ってくるのか、知らない。 そして、今ここで電話をかけている。何かにかき立てられていることに所在なくも気づいていた。さっきのコーヒーがまずかった理由はいつもの彼女の味ではないからということにも気付いていた。もちろん、彼女が恋しいということにも気付いていた。 数回のコールで彼女の声がする。携帯のスピーカーからではなく背後から。 「ロイドさん?どうしたんですか?」 いつもの柔らかい声に反応して振り返る。不安そうな表情でこちらを見ている。 携帯をさっさと切って、いつもの台詞。 「おかえりぃ〜!」 「あ、はい。ただいま・・・あのぅ・・・何かあったんですか?」 不可思議なものを見るかのように、自分と携帯電話を見ていた。いつもしない電話をしてきたから、緊急の事態にでもなったのだと思っているのだろう。そうなるのも当然と言えば当然なのだが。 「え〜?ん〜、あったと言えばあったかなぁ〜。」 「あの計算うまくいかなかったんですか?」 彼女が出て行く前にやっていた計算の心配をしている。一応終わっているといえば終わっているのだが、今、それが問題なのではなかった。 「計算はうまくいったよ〜。でも、困ったことがあってねぇ〜」 ますます分からないという顔に追い打ちをかけるように、上司命令をもちかける。 「淹れてくれない?」 「はい?」 さっき置き捨てたマグカップを彼女に渡す。まだほんのりと温かい中身が揺れた。 「コーヒー。美味しくなくて困ってたんだよねぇ〜。」 「それだけですか?」 きょとんとして、ぐっと見つめられる。 「そ。だぁ〜いもんだ〜い!君のコーヒーじゃないと仕事が進まなぁい!」 この言葉を聞いて、嬉しそうに笑ったのを確認して自分のデスクに戻る。 “君のコーヒーじゃないと仕事が進まない”は、“君がいないと仕事が進まない”の間違いだったかもしれないと思って、彼女のいつもの濃すぎるコーヒーを待った。
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