足2つ分





人が二人以外見当たらない夜更けの小道。月が落とす影は二人分だった。するりと伸びている黒い分身は同じように、同じスピードで、動く。

「篠原くん・・・」
伊東は振り向かずに言う。
「はい?何ですか?」
声をかけられた篠原が答える。

篠原のいた道場に伊東がやってきたのはつい先月のこと。免許皆伝をされた立派な先輩だった。周りの人間は彼を煙たがった。その剣の腕、知識の多さ、刺すような目つき。それらが気に入らない人間の方が多かった。
しかし、篠原は多数派ではなかった。どんなに仲間が陰口を叩いたとしても、参加する気にはなれなかったし、言うことなどできなかった。伊東鴨太郎という人間に篠原は惚れた。

「・・・慣れないのだが・・・」
ぼそりと伊東が呟いた。小さく発せられた伊東の声は篠原には微かにしか聞こえなかった。
「あの・・・何がですか?」
篠原が聞き返す。
その答えを聞いて、伊東はくるりと後ろを向いた。
「だから、その・・・君がいる位置だ。」
位置。篠原は伊東の足2つ分後ろにいた。伊東が歩き出せば同じように足を進め、止まれば同じように足を止める。
「あ!もっと後ろの方がよかったですか?」
はっと気付いて、篠原はさらに2歩下がる。
「いや、そういうことではなくて。」
と言った。
しばしの間悩んだが、「何でもない」と伝え、また体を前に向かせて歩いた。
伊東の後を追いながら、篠原は焦った。
「先生!待って下さい!気に入らないことがあったら、直します!」
「きっと君の問題ではなくて、僕の問題だ。」
伊東は切り捨てた。篠原の忠誠心は無残にも掠れてしまったようだ。
篠原には見当がなかった。もっと後ろを歩いた方がいいのか、それとも共に歩くことすら嫌なのか。色々と考えを巡らせるが見つからない。
暫く無言の空間が続いた。

「慣れないのだ。」
話し出した伊東に対して、相づちや下手な返事をするのを篠原はやめた。今は伊東の言葉を聞こうと思った。
伊東はいつもとは違う声音のままで続けた。
「僕の周りには誰もいない。その方が僕は慣れている。」
歩みが少しずつ、ゆっくりと落ちていく。勿論、篠原もそれに合わせていた。
「僕の後ろに誰かがいるときは・・・それはそいつが斬りかかろうとするときだ。子どもの頃なら、いじめようと機会を狙っているときだな。」
伊東は鼻で笑ってみせた。子どもの頃の記憶が蘇って、笑ってしまった。
一方、篠原は言葉を頼りに伊東の幼少時代が想像できた。自嘲するような笑いは、篠原の耳に凍てつくように聞こえた。
「だから、君がいるのは慣れない。後ろにいられると・・・。」
何かを続けようとしたが、伊東は口を閉じた。
きっとつらい時代を生きてきたのだろう。ここに来るまでもずっと苦しかったのだろう。
そんなことが簡単に見えたのは、篠原が伊東のことを敬い、そして惚れていたからだ。

「慣れて下さい。」
やっと口を開いた篠原の言葉に、伊東が振り返る。
「これは俺からの命令です。慣れて下さい。」
「・・・僕に命令するのか?」
「はい。」
伊東は声を上げて笑った。
「君は実に変わった男だ。僕の傍を離れないだけじゃない、僕に命令するとはな。」
無礼なことをしているのは重々承知していたが、篠原にはそれに勝てないものがあった。
「先生の傍を、俺は離れません。先生を御守りします。必ず。傍にいるのが慣れないのならば、その初めてに俺がなります。」
まだ聞いたことはないが、想像できる伊東の苦しみと辛い記憶。それがあるのならば、それから先生を守ろうと熱く胸に刻んだ。

伊東は今度は静かに笑った。
「何を言うか。今の剣の腕では、僕が君を守ることになるぞ。」
「あ、えっと・・・それは先生の元で鍛錬するので大丈夫です。」
馬鹿な男だと言って、また歩き出した。篠原との距離を保ったまま。それからこの夜はお互い何も言わなかった。


それから何回同じ月が空に浮かんだのだろうか。二人は同胞たちを連れて、真選組に入った。
伊東が屯所にいることは少なく、政治関係の仕事で出歩くことがほとんどだった。篠原も同行することが多かった。

「先生。」
背後から篠原が声をかける。
「何だ?」
振り向かずに伊東が答えた。
「もう慣れましたか?」
少しの間があったあと、伊東は「何のことだ」と言った。
本当は覚えていて、問いの意味も分かっているのに、どう答えて良いのか分からないでいることを篠原は分かっていた。
「いえ、何でもありません。」
そう言って、予想通りの答えに小さく笑った。

二人の位置があの日から変わることはなかった。
足2つ分の距離は伊東と篠原の忠誠の証。



(ドリーミングしすぎた。2008/12/04)